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第2話 君は何を出来るか

「こんにちは。教養部倫理科から来た下平幸平(しもだいら こうへい)です。みなさん、よろしく」

下平と名乗った男は30代半ばくらいで全体的に丸みを帯びた穏やかそうな男だった。下平先生は教室を見回しながら、腕を組みウンウン唸っている。

「例えばの話だ」

腕組みをほどき、先生が座席の周りを歩きながら話しだした。

「君たちが医者になったとしよう。そして、ある日、君たちが道を歩いていると、倒れてる人がいた。じゃあ、君はどうする?」

とたまたま言葉が切れたところにいた女の子を指でさす。というか翠か。

「救急車を呼んで、自分にできる限りのことをします」

いかにも優等生の翠らしい答えにというか、いきなり先生に話を振られても即座にきっぱりと答えられるところに皆の感嘆が漏れた。

「ふむ、まぁそれも一つだな。それじゃあ、この中で“何もしない”っていう人はいないか?」

その問いかけに教室がざわめく。仮にも医学部の学生として、“何もしない”という答えが正解だとは思えなかったからだ。その証拠として、誰一人として手を挙げるやつはいない。先生はそれを予想済みといったように再び歩き始めた。

「なるほど。じゃあ、もし君たちがその人の救命に失敗したとき、どうなるかを考えたことはないか?たまたま通りかかっただけでは、機材も備品も十分にない。そんな状態でできることはたかが知れているから、当然、救命に失敗することもある。そして、そこで起こってくる問題は…?」

先生が立ち止ったのは俺の目の前だった。やれやれ…と思いながら、考えをめぐらす…といっても答えは決まっていた。

「訴えられる可能性がある…ってことですか?」

「…そういうこと。さて、じゃあ、それによって起こると考えられるのは?」

再び先生が俺に話を振る。善意で名乗り出て最善を尽くしても訴えられる可能性がある…と考えればそりゃ人間の心理としては…

「名乗り出ることをしなくなる」

「正解」

ありがとさん、と言い残して、先生は教壇に戻って俺たちの方に向き直った。

「君たちも知っている通り、医師は診療を求められた場合、それを正当な理由なしに断ることはできない。これは医師法の第19条に示されている。だが、急病人がいたときに自分が医師だと名乗り出なければいけないという法律は存在しない。そのため、さっきの彼が言ったような状況が容易に想像できるわけだ。しかし、そのような状況が続けば、当然、患者の救命率は下がる。そこで出てきた考えが…」

先生がこの授業で初めて黒板に文字を書き出す。

その黒板にはこう書かれていた。

“善きサマリア人の法”

「みんなはこの考えについて知っているだろうか?知ってる人〜?」

1人、2人と手が挙がるが、多くは初めて聞いたというような顔をしている。

「じゃあ、こんな話は知っているかな?ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。そこにたまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかし、あるサマリア人は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。さて、この中でそのある人にとって一番ためになった人は誰かな?」

サマリア人です、と誰かが答える。

「そうだね。この話から出た“善きサマリア人の法”という考え方は簡潔にいえば、このように善意から出た行動には責任をあまり求めないようにしようという考えだ。この考え方は日本のとある法律と似ているという説もある。民法698条の緊急事務管理だ。この考え方についてはプリントを読んでくれ」

そう言うと、先生はプリントを配り始めた。そのプリントにはいくつかの法律が書かれており、その中の一つに緊急事務管理の項目があった。

[管理者(義務なく他人のために事務の管理を始めた者)は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない]

…難しくてよくわからん

「まぁ、法律の文章なんてのはよく意味がわからんし、お偉い先生方によって微妙に解釈が違ったりするくらい微妙な文章だからね。みんなは別に法律のプロになるわけじゃないから、あーそうなんだくらいで知ってれば良いよ。ただ、この法律で重要な点は重大な過失がないことをその管理者…僕たちがいま話しているところの手当てしている人が証明しなければいけないことなんだ。それじゃあ、次はスライドでも見てもらおうかな」

その後、スライドの中では様々な事例が語られていた…気がするというのは、正直、スライドを映すことになり電気が消えたため、俺の意識は朦朧としていた…

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最終更新時間:2009年03月13日 00時24分35秒